つぶやきしぶちん

去年の

2008年01月04日 | つぶやきしぶちん


お正月にUPした「転校生」の続編です^^

           「転校生Ⅲ」

5年生の何学期だったろうか。僕は西宮に引っ越した。
関西のイメージなんか何も無かった。
東京では今のように関西の芸人がテレビに大勢出ていなかったし
まだ子供の僕には未知の地域でした。

              ・

明け方からクマゼミが鳴き始める。
シャーシャーシャー
一軒家の社宅住まいの庭には木が沢山あって
その中の大きな木がどうやらクマゼミの好きな木のようで
気持ち悪いくらい沢山の黒く大きな蝉が木にしがみ付き鳴いている。

暑い夏を一層、暑く感じさせる蝉の声
空気はどんよりし、湿った気だるさがあった。

上ヶ原小学校

僕はこの小学校が4っ目の学校になる。
大きな学校だった。
担任の先生に教室まで連れて行ってもらい挨拶を促された。
「東京から来た○○です。宜しくお願いします」
頭を下げた後、教室を見渡した。
よそ者を見る冷たい視線を感じた。

「東京」というフレーズがどうも駄目らしい。
標準語を話す僕はなかなか馴染めなかった。いや、なかなか
仲間に入れてもらえなかったとう言うべきか。
関西弁はイントネーションだけでは無く、わからない言葉も
多かった。

数日すると、クラスの悪ガキチームに校舎の裏に連れて行かれた。
「何のぼっとんねん!」
「しばいたろか!」
普通に振舞い、普通に話し、新入りらしく大人しくしていたつもりの
僕は何を言われているのか?
脅されているのは間違いない。
それが最初のイジメだった。

勉強はあまり出来なかったが、東京で教わった事を授業でしていた
ので意外とその時期はテストの点数が良かった。
全体的に東京より遅いテンポだったようだ。
運動神経と図画工作は自信があり、何かと僕は目立つ存在になっていた。
それがまた気に食わないようで、一部の生徒らに必要に狙い撃ち
されていた。

道徳の授業では「部落差別」「同和問題」の話や映画だった。
全く馴染みが無い僕には何の事だかさっぱり理解出来なかった。
クラスの何割かは、その地域の生徒が居たようだった。
その時間、彼らは辛そうだった。
僕の事を虐めていた生徒達はその地域だった。

虐めはしばらく続いたが、陽気な僕は少しづつ彼等に
認められるようになってきた。
初めから先入観が無いので、地域の問題は「?」なので
見る目は他の生徒と何ら変わりは無かった。
仲良くなると、皆、面白い奴らだった。少しませていた僕に
「性」の事や東京の女の子の話を聞いて喜んでいた。
いつの間にか遊び仲間が彼等になっていた。

地元の生徒はその地域の彼等と一線を引いているように
感じたのは間違いなかった。
代々伝わる物なのか、子供には何ら関心が無い事だった
ように思うが、取り上げれば取り上げられるほど意識して
しまうものだったのかもしれない。

仁川から山へ登り、水晶を取りに行ったり
甲山にクワガタを取りに行ったりして遊んだ。
学校の休み時間には、ドッチボールが定番で、鬼と警官の
ような鬼ごっこも流行っていた。

小学校を卒業する頃は僕はすっかり関西弁をマスターし
西宮が少し好きになっていた。

「そして中学へ」

甲陸中学校

小学校の仲間とはバラバラになった。

正直、虐められていた時期もあり小学校高学年は
あまりいい思い出は無い。

そもそも6年間で4回も小学校を変われば思い出も散漫である。
しかし今思えば、僕の適応力は転校する度に
強くなったのかもしれません。

中学生活はまさに最高に楽しかった時期と言える。
今まで生きてきた人生の中で輝いていた頃
まさに青春期ですな^^

もはや東京からのよそ者では無い。
全員が殆んど初対面なのである、1からのスタート。
担任の先生にも恵まれた。年配の体育の先生だったが
怖くて厳しいが公平で生徒を信じてくれる先生だった。

林間学校で仲間3人で明け方こっそり忍び出て
クワガタを取りに行った。
それが見つかり、全校生徒の前でビンタでぶん殴られた。
まぁまぁ悪さをしては殴られましたねぇ(笑)
あの頃は、先生が生徒を殴る行為なんて日常だった。
それが普通だったし、当たり前だったし、殴られて当然の
事をしていたのだから。
それを親に言えば今度は親に叱られるw

今、思えば殴るタイミング、手加減、何もかも「先生」
だからこそだった。
愛のムチとは良く言ったもので、あの頃の先生は
(全員は言わないが)純粋に教育者として真っ直ぐな
人が多かったと思う。

中学の一番の思い出と言えばやはり「部活」だろうか。
僕は背が高かったし小学校の事からポートボールが
大好きだったので迷わず「バスケットボール部」に入部した。

小学時代には無い先輩、後輩という関係。
1年坊主は掃除や球拾いや応援、練習と言えば基礎的な
事ばかり、礼儀や上下関係を叩き込まれたのもこの時期だろう。
今思い出しても厳しい練習だった。
いわゆるシゴキである。
夏場はキツカッタ。。。。体育館は茹だる様な暑さ!
水飲み休憩が待ち遠しくてね。
僕は瞬発力はあったけど、持久力があまり無かった。
太ももがブルブル振るえ、パンツまでビショビショになりながら
ボールを追いかけた。

母親にタッパに(筒状のね)麦茶を入れて凍らせておいたものを
部活に持って行くんだ。
少し濃い目に入れた麦茶はカラカラに乾いた喉を潤す。
でも溶けた分はすぐに無くなっちゃうのだけど、それに
水道の水を混ぜる。
そしてシェイカーのように振るんだ。
その美味さたるや!
キンキンに冷えた水が微かに麦茶の香りがしてね。
練習が終わる頃には凍った麦茶は小さくなって。。。

3年生になると僕はレギュラーになり背番号は「5」番
4番はエース5番はポイントゲッターの番号だった。
部活の思い出は汗と涙とほのかな麦茶の香りかな^^

そうそう
中一の時、親友が出来た。

そいつは入学式の頃から目立っていた。大人びた顔
筋肉質な体型、第一ボタンを外し、髪は長かった。
靴はオニツカタイガーのバッシュである(笑)
例のごとく不良グループは各クラスに数人づついる訳だが
ヤツは彼等と何処か違っていた。

「M」

おまえ。。。元気か?

Mと仲良くなったきっかけは野口五郎だった(笑)
音楽が好きな僕らは「青いリンゴ」を一緒に良く歌った。
ギターを始めたのも彼の影響だったかも。

腕相撲で唯一勝てなかったM
底なしに優しかったM
時々、寂しそうな目をするM

1年の時の文化祭だったかな?
確かテーマが手作りの玩具(それも昔ながらの)だった。
僕はMに
「二人で皆が、あっと驚くものを作らないか?」ともちかけた。
「面白そうだな!やろうぜ!」と彼

僕らは巨大な凧を作ろうと思った。
それも驚く程デカイのをね!

二人で民家の竹林に忍び込み太い竹を取ってくる。
自宅の庭で竹を切りタコ糸で四隅を縛り骨組みを完成させた。
二人で夢中になって作った。
部屋に入れ、和紙を貼り終わった頃はすかっかり夜に
なっていた。

糊が冷たかった。

「俺が、夜、ここに絵を描いとくから明朝、来てよ!
そして一緒に学校に運ぼうぜ!」
「わかった頼むぜ!」
Mが帰った後、僕は深夜まで大凧と格闘した。

翌朝、Mが家へやってきた。
いつもより少し早めに。

僕は渾身の絵をMに早く見てもらいたかった。
確か浮世絵の「写楽」を描いた。
「おおお!ーーーすげぇ!すげぇ!こりゃいいっつ!」
Mは期待通りの反応をしてくれた。
「おまえ凄いな!」何度もMは僕に言った。

僕は嬉しくて堪らなかった。

僕らは二人で大きな凧を(恐らく畳み2畳はあっただろう)
担いで鼻高々、学校へ向った。
二人で作った凧。
僕らは、皆の反応が楽しみだった。

大きさと完成度の高さに、クラスの皆は本当に驚いていた。
特に先生が、「おまえらぁ~やるなぁ~」的に褒めてくれたのを
覚えている。
文化祭が終わり、その凧に糸を付け校庭に運んだ。
寸法もメチャメチャな凧、飛ぶわけないだろう。

でもMと僕は飛ばしたかった。

数人に手伝ってもらい、凧を持ってもらいMと僕は糸を
持ち、思い切り走り始めた!

「飛んでくれ!」

凧は一瞬、大空に舞い上がったけど、すぐに急降下
「あ!」と思ったときは地面に叩きつけられバランバランになった。

息を切らせながら、Mと僕は見つめあい
そして大声で笑った。

いつまでも。

凧は一瞬で壊れてしまったけど、二人で作った
あの時間は永遠だったのさ。

                     続く

中学日記はまだまだ続きそうなので
またの機会に!

「恋」もしたね、「受験」もあった。

すんません、こんな「つぶやき」で^^;
続編はまた来年の正月休みにでもw




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